序章 後編
避難していた仲間たち全員の生存を確認し、誰もが一安心したころ、気がつけば太陽ではなく月が大地を照らしていた。
山賊の夜襲が来ないか警戒しつつ、草原の民は次々と眠りにつく。
それに反し、ゲルの前で冷たい風に当たっている少女の影があった。
山賊の夜襲の警備ではない。既に男手の余っている部族に要請をし、警備を任せているのだ。
だからただ単に、夜風に当たっているだけ。吹き抜ける風が傷に沁みる。だが、そんなことはお構いなしに考える事があった。
今日この日起こったことを振り返る。彼女にとって、今日は何もかもが違う一日だった。
しかも下手をすれば、この日命を落としていたかもしれない。いや、きっと落としていた。
何もできないままに、怒りと悲しみをぶつけられないまま終わるところだった。それを、今日出会った彼が変えた。
少女は今日負った傷口を見る。軽い傷で致命的なものではない。これからも剣を持つことはできる。
自宅を振り向く。
少女の視線の奥には、自分の運命の転機を与えてくれた旅人の、ベッドで眠っている姿が映っていた。
明日、彼に願いを聞いてもらおう。
彼の待ち焦がれていた食事の際に話しても良かったかもしれないが、折角多めに作ったにも拘らず半分も食さずにそのまま就寝してしまったのだ。
空腹の影響で胃が小さくなり、少量でも満腹になるという理屈は分かるが。
「食べてすぐに寝なくたっていいのに。しかも横になった瞬間に寝入っちゃうし……」
今声をかけてもティーウは目を覚まさないだろう。
泥のように深い眠りから聞こえる寝息の心地よさは、今この場で燃えたぎる決意を完全に無視されてしまう。彼が目を覚ますまで待つしかない。
「父さん、母さん、私……強くなりたい」
血を拭きとった剣を手に取り、リンは空を再び見上げる。
風はリンの周りに巻き起こり、あわよくば彼女を高く持ち上げようと力強く吹きつけ続けた。
その風は不思議と温かかった。
月から再び太陽が大地を照らし始める時間。
草原の民の朝は早い。太陽が山から顔を出して間もない時間には、もう活動を開始している。
ところが、もっと早くに活動している人がいた。
太陽が山から顔を出す頃に目覚めたリンだったが、辺りを見回すとティーウの姿が見えない。
彼の荷物も何もかも無くなっており、新しくあるのは机とコップに挟まれた紙切れだけだった。
「手紙?」
彼からの手紙だというのは、文章の最後に記した名前で分かった。内容はというと……。
”リンへ”
あの場でアンタに拾われたことを本当に幸運に思うよ。
昨日はお陰様で久々の食事・睡眠・そして休息が出来た。
この借りは、悪いが昨日の山賊退治の手伝いでチャラってことにしてしまうが勘弁してほしい。
俺はこれから南にある交易都市ブルガルに向かう。
早朝なら山賊も襲って来にくいし、朝食までごちそうになるのは気が引けるからな。
……でも簡単な食料が少しなくなってると思うが気にしちゃいけない。
もう会えないかもしれないし、もしかしたらまた同じ所で拾われるかもしれない。
まぁ縁があればまた会えるだろうから、その時はまたよろしく。
追伸
誰よりも強くなりたきゃ、今からでも世界を渡ってみりゃいいさ。
”ティーウ”
「……うそ」
慌てて外に出るももう遅い。霧がかかった視界の中では、彼どころか他のゲルさえも捉えることが出来ない。
そうと分かった瞬間、リンは慌てて旅支度を整えようと室内を駆け回っていた。
目的はただ一つ。
彼を追うこと。
このままいつもの様に草原でただジッとしていてはいけない。
前に進むために、剣の技を磨くために、己自身の願いの為に。
「分かったから。一人でいたって強くなれないって。だから……私もブルガルへ!!」
旅支度は整った。あとはゲルを畳んで一部の家具を誰かに預ければいい。
だが部族の仲間達に声をかけていいものか、リンは迷っていた。自分一人が旅立って、残された彼らは一体どうなるというのか。
きっと引き止められると思うと、このままコッソリと出ていった方がいい気もする。
だが同胞に対しての行為として、それはあまりにも酷すぎる。
「リン……準備はできたらしいね」
「!?」
入り口で悩んでいた所で、仲間の声が後ろから聞こえてきた。
振り返ると、ほぼ全員の仲間たちが移住の支度を整えていた。
「みんなその格好……どうして急にそんな?」
「族長代理のゲルに誰かからの手紙があったんだよ」
「リンが旅に出たがってるから、もっと草原の奥に移って山賊から逃げろって」
手紙の主には心当たりがある。
今はもういない彼の姿が浮かんだ。
リンは黙っていると族長代理と呼ばれた男が前に出た。
「どこか大きな部族に匿ってもらうことにした。どの道ロルカ族をこのまま維持するのは困難だからな」
「遅かれ早かれこうなると考えていたが、それにリンが縛られることもないだろう」
「………はい」
リンは感謝の言葉をなかなか出すことが出来なかった。族長代理は快くリンを外の世界に送り出そうとしている。
だがそれはリンにとって歯がゆいものであった。
生き残った中で一番年上の男であるだけで代理となり、本当の族長の娘である自分をまるで軽視しているのだから。
「じゃあ……いってきます!」
それでも精一杯の大きな声で挨拶して、リンは仲間たちに見送られた。今リンが求めるものは族長の立場よりも、仲間を守る剣の腕だから。
故郷が見えなくなったころにはリンの足取りも軽くなり、寧ろ急ぎ足で南へ向かう。
若き旅人に追いつくために。
旅に出るきっかけをくれた、そのお返しが一晩の宿と少しの食糧だけだなんて、リンは絶対に納得がいかないから。
エレブ新暦979年
草原に眠りし剣客が、世に放たれた瞬間である。